先日、大学時代の恩師の葬儀に参列しました。先生は、講義では常に厳格で、私たち学生とは、どこか一線を画している、少し近寄りがたい存在でした。深い尊敬の念と共に、先生の訃報に接し、厳粛な気持ちで斎場へと向かいました。会場に入ると、祭壇の横に、一枚の大きなボードが飾られているのが、目に飛び込んできました。それが、先生の「メモリアルボード」でした。そこには、私が知っている、講壇の上の厳しい先生の姿は、ほとんどありませんでした。代わりにあったのは、満面の笑みで、大きな魚を釣り上げている姿。奥様と二人、仲睦まじく寄り添い、海外の美しい風景の中に立つ姿。そして、小さな孫娘を、これ以上ないほど優しい眼差しで見つめ、肩車をしている姿。写真の一枚一枚に、奥様の手によるものであろう、温かいコメントが添えられていました。「釣りが何よりの生き甲斐でした」「毎年、結婚記念日には、必ず花束をくれました」。私は、そのボードの前に立ち尽くし、しばらく動けませんでした。私が知っていた先生は、その人の、ほんの一部分でしかなかったのだと、思い知らされました。そのボードは、先生が、一人の夫として、一人の父親として、そして、一人の人間として、いかに豊かで、愛情深い人生を歩んでこられたかを、静かに、しかし力強く、物語っていました。焼香の順番を待つ間、私の隣にいた、同じゼミの友人たちも、そのボードを見ながら、「先生って、こんな一面があったんだな」「奥様のこと、本当に大切にされてたんだね」と、静かに語り合っていました。メモリアルボードは、私たち参列者同士の間に、自然な会話と、故人への新たな発見をもたらしてくれました。遺影の中の、少しだけ寂しげな先生の顔が、そのボードの温かい光に照らされて、どこか、優しく微笑んでいるように見えたのは、きっと、私だけではなかったはずです。