なぜ、私たちは、葬儀という、悲しみの儀式の帰りに、品物を受け取るのでしょうか。そして、なぜ、その品物を「土産」ではなく、「返礼品」と、わざわざ呼び分けるのでしょうか。この、葬儀における「お返し」の文化を、深く見つめてみると、そこには、日本の社会と、人々の心のあり方を映し出す、三つの、重要な精神が流れていることに気づかされます。第一に、「相互扶助(そうごふじょ)の精神」です。葬儀は、突然、そして莫大な費用がかかる、一大事です。かつての村社会では、一家に不幸があれば、近隣の人々が、米や野菜、労働力を提供し合う「香奠(こうでん)」という形で、その負担を地域全体で支え合ってきました。現代の香典は、その精神が、貨幣経済の中で形を変えたものです。そして、返礼品とは、その「支え」に対して、喪家が「皆様のおかげで、無事に儀式を終えることができました」と、コミュニティに対して、感謝と無事を「報告」するための、重要な応答なのです。それは、一方的な施しで終わらせず、必ず応答することで、対等な関係性を維持し、共同体の絆を再確認する、という、社会的な儀礼なのです。第二に、「けじめの文化」です。葬儀から四十九日の忌明けまでの期間は、ご遺族が喪に服す「非日常」の時間です。そして、忌明けに合わせて贈られる香典返しは、その非日常の期間が終わり、ご遺族が、再び社会生活へと復帰することを、社会全体に宣言する「けじめ」の印となります。この明確な区切りによって、私たちは、悲しみという特別な感情を、少しずつ日常の中へと着地させていくのです。そして第三に、「相手への配慮」という、日本的なコミュニケーションの美学です。品物選びにおいて、「消え物」を選ぶのは、相手に、いつまでも悲しみを引きずらせないように、という思いやりです。挨拶状に、句読点を使わないのは、儀式が滞りなく流れるように、という祈りです。目に見えない「心」を、目に見える「品物」や「形式」に託し、相手への負担を最小限にしながら、最大限の感謝を伝える。この、どこまでも繊細で、奥ゆかしい心遣いこそが、「土産」という、自己の楽しみの共有とは、一線を画す、「返礼品」という言葉の本質なのです。葬儀の返礼品は、単なるモノの交換ではありません。それは、人と人との絆を確認し、社会の秩序を回復させるための、深く、そして美しい、文化装置なのです。
土産ではなく返礼品と呼ぶ理由