私は葬儀に参列する際、あえて開式の40分前には会場の最寄り駅に到着するようにしています。これは単に遅刻を避けるためだけではありません。駅からの道を歩き、斎場の重厚な門をくぐるまでの時間を、自分自身の心を「日常」から「非日常」へと切り替えるための移動時間として大切にしているからです。多くの参列者が、仕事の電話を切りながら、あるいは慌ただしく時計を気にしながら受付に駆け込む姿を見かけますが、それでは故人への想いを馳せる余裕がありません。私は受付を済ませた後、用意された待ち合いスペースで静かに座ります。そこから流れてくるかすかな線香の香りや、スタッフの静かな足音、そして時折聞こえる遺族のすすり泣き。それらの断片に触れながら、故人との出会いや、共に過ごした日々をゆっくりと思い出します。この「待つ時間」こそが、私にとっての供養の始まりです。葬儀の本番が始まれば、読経や焼香といった形式的な流れに身を任せることになりますが、その前の静寂の中でこそ、自分だけの本当の別れができるような気がするのです。また、式が終わった後の時間も重要です。すぐに駅へ向かうのではなく、少しだけ会場の周りを歩いたり、近くの公園で足を止めたりします。葬儀で感じた生と死の重みを、少しずつ自分の日常の中に溶け込ませていくプロセスです。このように、葬儀参列を「点」の出来事として捉えるのではなく、前後の時間を含めた「線」の体験として捉えることで、私の参列はより深いものになりました。時間は残酷に過ぎ去るものですが、葬儀という特別な場においてだけは、時間はゆっくりと、あるいは止まったかのように感じられることがあります。その不思議な感覚を大切にしながら、故人が遺してくれた教訓を反芻する。多忙な毎日を送っているからこそ、こうした「止まった時間」に身を置くことは、自分自身を救うことにもつながります。葬儀への参列は、故人のためであると同時に、残された私たちがこれからの人生をどう生きていくかを見つめ直すための、神聖な時間なのです。その1分1秒を、私はこれからも丁寧に、そして誠実に使い続けていきたいと思っています。