私が初めて手にした本格的なアクセサリーは、父から譲り受けたマットな黒いタイピンでした。父が若い頃、自分の上司の葬儀に参列するために買ったというそのタイピンは、飾り気がなく、質実剛健という言葉がふさわしい逸品でした。父が亡くなった時、私はそのタイピンを付けて父を送りたいと強く思いました。父が大切にしていたものを身に付けることで、父との絆を感じ、最後の別れに相応しいと思ったのです。しかし、葬儀の当日の朝、親戚の年配の男性から、気持ちはわかるが、今日は外しておきなさい。お父さんは君がマナーを完璧に守って、立派に喪主を務めることを望んでいるはずだ、と優しく諭されました。私はハッとしました。自分の思い出や感情を優先させることが、果たして父への本当の供養になるのだろうか。葬儀という場は、自分の個人の物語を誇示する場所ではなく、公の儀式として故人を尊ぶ場所です。私は泣く泣く、そのタイピンを外し、内ポケットに大切に仕舞いました。その代わり、タイピンを触るようにして内ポケットに手をやるたびに、父がそこにいて励ましてくれているような感覚を得ることができました。姿は見えなくても、タイピンを付けなくても、父との繋がりは消えません。むしろ、マナーを尊重し、静かに儀式を執り行う姿こそが、父が私に教えたかった大人の節度だったのだと思います。葬儀が進むにつれ、私はタイピンを付けなかったことで、より真摯に参列者の方々と向き合える自分に気づきました。装飾という鎧を脱ぎ捨てた裸の心で、父への感謝を伝えることができたのです。葬儀が終わった後、そのタイピンは私の宝箱の特等席に戻りました。次にこれを取り出すのは、私自身の節目の時、あるいは父を静かに偲ぶ法要の時になるでしょう。思い出の品を身に付けたいという衝動と、場のマナーを守るという義務。その葛藤の中で、私は一歩成長することができました。アクセサリーには力がありますが、それを使いこなすには、時と場所を選ぶ知性が必要です。父から譲り受けたのは、タイピンという物だけではなく、それをいつ使うべきかという、人生の作法だったのだと感じています。この教訓を胸に、私はこれからも大切な別れの場に、正しい心構えで臨んでいきたいと思います。